第 一章 持続可能な生き方を求めて第 1章 持続可能な生き方を求めて
−現状の紹介を中心に−
持続可能という言葉は比較的目新しいと思うが、英語のsustainableに対 応させて用いており、一言でいえば、太陽がある 限り、そのエネルギーに 依存して、豊かな人間生活が出来るような住まい方を追求しようとするものである。このプロジェクトを決意したのは、丁度、1990年 の元旦の計としてであった。公害問題(公害といっていた頃は、まだことは局所的だったが、今や地球規模になってしまった)にも、しばしばかかわっていたの で、ひどくなって行くばかりの環境を見ながら、何故、世の中はこんなにもそれに無関心でいられるのか。何とか具体的な方法を見いだすべく行動せねばならな いと思い始めた。10年を目標にはしたが、まだ完成したわけではなく、持続可能な生活のめどが立った現時点で、15年間の記録として報告したい。しかし、 やりたいことがますます増えて、私一人の手に負えず、多くの人達の協力が必要となり、そのお願いをしたいというのも正直なところである。私の歳になると、何と言っても強い関心は死後の世界である。一体どの様な世界が待っているのだろうか。何と も言えない不安感があるが、少なくとも、現世 との連続線上にあると思えば恐怖の対象ではなく、むしろどんな所に行けるのだろうかと興味の対象にさえなる。この死後の世界の議論は過去何年も行われ、こ れからも計り知れない時間の中で行われることであろう。そのために、神は偉大なエネルギーの源である太陽と、我々を抱擁する地球、さらには宇宙を与えてく れたに違いない。
何時終わるとも知れないが、人間の最後のこの課題を解くべく、太陽の存在する限り、その思考を繰り返せるこの地球、その環境は是 が非でも守って行かねば ならない。私は、持続可能なライフスタイルの確立を、より広義にとらえて、この様に位置づけている。従って、そこでは太陽エネルギーが唯一、依存できるエ ネルギーであり、それで現在使われている全エネルギーを賄うのに十分であるということ−人類の使っている全エネルギー量は地球に降り 注ぐ太陽 エネルギーの1/15,000といわれる−も知っておかねばならない。言い換えれば、太陽がある限り、我々は存続できるし、最後の課 題を目指 し、それを解くべく協力し合って行くことが出来るのである。
宗教論争を挑むわけではないが、かつての偉大なる宗教者達が築き上げてきた哲学は、今度はそれぞれの個人が求め、各人のもつ創造 性が全て集められ、人類 (あるいは自然)全体で協力し合うことによって、初めてこの最後の課題の答えが得られるのではなかろうか。その意味で信じることを強要するのではなくて、 個人の創造性をかつての偉大な宗教者達が見出したように、深く考える方向から議論を進めるべきであり、そして、それが個人主義−決し て利己主義ではない−としての根底をなすべきであると思っている。
地球は何れ消滅する。太陽のエネルギーが消滅したときに。そしてその時が地球上の生き物の最後である。その時、我々の魂は何処に 行くのだろうか。それは 新しい世界を求めての新しい出発である。その時には、宇宙をさまようのではなく、しっかりとした目標を構築しておきたいものである。この最後の課題は、そ の出発への準備をしていることにもなる。
地球が消滅した時点で、全てが無になると言う考えは、あたかも、カビが有機物に発生し、その有機物のエネルギーを食いつぶして無 くなるのに似ている。人間 はもっと高次な存在の筈だし、それでなければ、生きて行く楽しさも意味もない。
歓喜は神からのインパルスと言われる。次の世界では味わえないであろう肉体と共存するこの世界でのみ得られる歓びである。恋愛も 芸術も音楽も文学も研究 も、全て肉体と共にある。だから限りを尽くしてその歓喜を求め、精神を高めて、次の世界での良い出発とせねばならない。しかし、それは持続可能な生活が確 立されたときにのみ、許され与えられることである。
以下本文で述べることは、多くが工学的−といっても日常的な常識の上に成り立っている& minus;である。従って、ここで 持続可能の意味を述べて、共通基盤の上に立って共に議論を進めたいわけである。
もう一点強調しておきたいことは、これまでの工学はたやすく得られるエネルギーの上に立ち、それを大量に使 いながら築き上げられてきた。しかも多くの環 境汚染を残して。従って、このエネルギーがなくなると(40年で無くなるとも言われている)その多くは意味をなくしてしまうであろう。その意味でも我々は 何年も前に帰り、太陽のエネルギーに依存する持続可能な生き方を求めるための科学を、改めて構築し始めねばならない。すなわち、一度昔に帰って、そこから ポイントを切り替えるのである。この忘れられてきた新しい目標を目指す科学、それを作り上げて行かねばならない。
本文で指摘するように、持続可能を目指す時、身近なところで、さらに科学を必要とする領域が、多く潜んでいることに気付くであろ う。私は元来音響学者で ある。少し建築学、殊に、建築環境工学に足を踏み入れていた程度で、むしろ愚鈍な一人の人間である。その科学的知識の浅さには、失笑を買うところが多々あ ろうが、新しく向かうべき方向があるということを、強調したい故の執筆である。
さらに現実的な側面から説明すれば、自分のために働く−一定の労働さえすれば、自然が多くを助けてくれる −ので あり、他人のためにではない。従って、各人が自由になり、あらゆる権力から解放され、個を確立することが出来る。
これは劇的な生活環境の変化をもたらすが、革命ではない。なぜならそれは権力を意識した言葉であるからである。持続可能のライフ スタイルは、はじめから権 力機構における葛藤のためではなく、自己変革のためにあるからである。
持続可能とは、物理的には太陽のエネルギーが枯渇するまで生きる方法を見いだすことである。そのためには、 自然のエネルギーをもとに、地球を汚すことな く、自然農法に基づく自給自足で質素に生きて行かねばならない。社会組織も奉仕の精神に基づくLowHierarchyによるものでなければならない。そ うすれば、権力を争う戦争は自ずとなくす事が出来よう。
さらに広義にいえば、人間が個として自然の中で生活する場を確立し、そこで創造的な生活を送ることである。その創造性は死後の生 活にも継続されるものであ り、そこへの連続性を見いだす精神活動を発展させねばならない。そうすれば、太陽エネルギーが枯渇しても、さらなる次の空間へと進展してゆけよう。
実際地球環境は非常に悪くなっている。幾多の消滅してしまった存在は勿論、温室効 果、以前と異なって変動する毎年の気候、毒性の ある物質の氾濫等など。 こんな現在の様子をすでに150年も前にはっきりと言いきった人がいる。アメリカインデアンの酋長Seattleは、1854年、彼の種族の土地を売って くれ、という時の大統領の要請に応えて、返事を書いている(著者拙訳)。"この地球は貴重である"
どの様にして、空や、土地の温もりを売ったり買ったりできるのだろうか。その考え方は、我々にとって不可思 議だ。
「全てが神聖である」
地球のどの部分も我民にとっては神聖である。光輝く松の葉、砂浜、暗い森の中のもや、飛び交い、ぶんぶん言っている昆虫、全ての それらは、我が民の記憶と 経験の中にあって神聖なものなのだ。木の中を流れる樹液はインディアン達の思い出を運ぶ。
白人の死者は、星の世界に行ったとき、その生まれた国を忘れてしまう。我々の死者は、決してこの美しい地球を忘れない、なぜなら 地球は我々の母だからだ。
我々は地球の一部であり、地球も我々の一部なのだ。
香り高い花は、我々の姉妹であり、鹿や馬、大きな鷹、それらは我々の兄弟なのだ。
岩っぽい山頂、牧場のつゆ、小馬の温もり、そして人間−それら全て同じ家族に属している。
「簡単じゃない」
だからワシントンの大酋長(大統領)が、我々の土地を買いたい、と手紙を寄せたとき、何と過大なことを我々に要求してくるのかと 思った。大酋長は、我々を 一つ所に保護して、我々自身が快適に住めるようにしてやろうという。
彼は我々の父になり、我々は彼の子供になる。だから、我々の土地を買いたい、という彼の申し入れを考えてみなければならない。
しかし、これはたやすいことではない。というのはこの土地は我々にとって神聖だからである。
全てのせせらぎや川を流れる光輝く水は、ただの水ではなく、我々の先祖の血なのである。
もし、我々があなたに土地を売るときは、これは神聖なものだということを忘れないでほしい。そして、あなたの子供たちにも、この 土地は神聖で、湖の清水に 影のように写るどの反射も、我が民の生活の出来事と思い出を話しているのだと教えてほしい。
水のつぶやきは、私の親父のそのまた親父の声なのだ。
「親切さ」
川は我々の兄弟であり、喉の渇きを潤してくれる。川は我々のカヌーを運び、我々の子供を育ててくれる。もし、我々があなたに我々 の土地を売るとすれば、 川は我々の兄弟であり、あなたのものであるということを、覚えておかなければならないし、あなたの子供に教えなければなりません、そして、これからは、あ なたがどの兄弟にも与える親切を、川にも与えてやらねばなりません。
白人は、我々のやり方が理解できないことを、我々は知っている。土地の一区分は、彼にとって次の区分と同じなのだ、というのも、 彼は夜やってくる他人者 で、彼の必要とするものは何でもこの土地からとってゆく。
この地球は彼には兄弟ではなく、彼の敵なのだ、そして彼がその土地を征服すると、また移動し続ける。
白人は、彼のお父さんの墓を背後におきさり、気にも留めない。彼は、地球を子供たちから人質に取り上げ、そして気にも留めない。
彼の父親の墓や、子供の生まれてくる権利を忘れてしまっている。彼は彼の母である地球を、また、兄弟である空を、羊やきれいな ビーダマを買ったり、盗んだ り、売ったりするものであるかのように扱う。
彼の食欲はこの地球をむさぼり食ってしまうだろう、そして、後には砂漠だけを残して行く。
私には解らない。我々のやり方は、あなた方のやり方とは異なっている。
あなたがたの町の光景は、我々の目を痛めつける。しかし、おそらくそれは我々が野蛮人で、理解できない故であろう。白人の町には 静かな場所がどこにもな い。春、木の芽がぽんと開くときの音を聞いたり、昆虫のはねが擦り合う音が聴こえる場所はどこにもない。
しかし、おそらくこれは私が野蛮人で、理解できないからであろう。
がちゃがちゃという音のみが耳を傷つけるように思える。そして、もし人間が夜鷹の寂しげな鳴き声や、夜、池の周りの蛙たちの議論 が聞こえなくなれば、暮し にとって一体何があるというのだろう。私はインディアンで、理解することができない。
インディアンは、池の表面をわたる風の柔らかい音や、日中の雨で洗われた風、あるいはピニョン松の匂いのする風そのものの匂いが 好きだ。
「貴重なもの」
空気はインディアンにとって貴重なものである、というのは全てのものが同じ呼気を共有しているからだ−獣、 木、人、みんなが同じ呼気 を分けあっている。
白人は、彼の吸っている空気のことに、気を留めていないようだ。何日間も死んだ人間のような、嫌な臭いに無感覚だ。しかし、も し、我々があなたに我々の 土地を売るならば、あなたは、空気は我々にとって貴重なものであり、空気はその精神を支える全ての生き物と分かちあっていることを覚えていなければならな い。私たちのおじいさんに、最初の呼吸を与えた風は、彼の最後のため息も受け止めてくれる。
そして、もし、私たちがあなたに我々の土地を売るならば、白人ですら、牧場の花でよい香りになった風を、味わいに行けるような場 所として、それを別に離し て神聖に保っておかねばならない。
「一つの条件」
それでは、我々の土地を買いたい、というあなたの申し入れを、受け入れる決意をするかどうか考えてみましょう。私は一つの条件を 出しましょう。白人は、こ の土地の野獣たちを、彼の兄弟として扱わねばなりません。
私は野蛮人なので、そのほかのやり方が解かりません。
私は、かつて、走り行く列車から撃った白人の残した、幾千もの死んで行くバッファローを、大草原に見たことがあります。私は野蛮 人なので、どうして煙を吐 く鉄の馬が、我々が生きて行くためだけに殺すバッファローより大切なのか理解できません。
野獣なしでの人間とは、一体何なのでしょうか。もし、全ての野獣がいなくなったとすれば、人間は心の寂しさが募って、死ぬのでは ないでしょうか。
野獣たちに起こることは、すぐ人間にも起こります。全てのものは結ばれているのです。
「なきがら」
あなた方は、あなたたちの子供に、足元の大地はあなた方のおじいさんのなきがらであることを、教えなければなりません。そうする と、彼らは大地を敬うで しょう。あなた方の子供に、地球は我々の血縁の命で満ち満ちていることを教えてください。
あなた方の子供にも、我々が我々の子供に教えてきたこと、地球は我々の母であることを教えてください。
なんであれ、地球に良くないことが起これば、地球の子孫にも起こる、人が大地に唾を吐けば、彼ら自身に唾を吐いていることにな る。
このことははっきりしている。地球は人に属すのではなく、人が地球に属しているのだ。このことはよく分かっている。
全ての物事は、一つの家庭を結び付ける血のように結ばれている。全ては結ばれているのだ。
地球に良くないことが起これば、すべて地球の子孫にも起こる。人は生活の蜘蛛の巣を織りはしなかった、人は蜘蛛の巣の中の一本の より糸でしかないのだ。人 がこの蜘蛛の巣に何かをすれば、人自身にも何かが起こる。
白人の神が、白人に友達から友達のように歩み寄り話しかける、そのような神を持つ白人でさえ、共通した運命からは逃れられない。
我々は結局兄弟なのだ。
見てみましょう(きっと解るでしょう)。
私たちは一つのことを知っている、それは白人も、ある日見いだすであろうが、我々の神は同じ神なのだ。
あなたたちは、現在あなたの神を、私たちの土地を所有したく思うように、所有しているでしょう、しかし、それはできません。彼は 人の神であり、彼の哀れみ はインディアンにも白人にも同等だからです。
神にとってもこの地球は貴重なものです。そして地球を傷つけることは、その創造者に侮辱を重ねて行くことになります。
白人全てが消滅せざるを得ません。おそらく、他の全ての種族よりも早く。あなたの寝所を汚してみなさい、そうすれば、ある夜、あ なたは自分のごみで窒息 するでしょう。しかし、あなたをこの土地につれてきて、何か特別な目的のために、この地やインディアンを支配させた神の強さに照らされて、あなたの滅亡の 時には明るく輝くことでしょう。
この運命は我々にとって一つの計り知れないものです。と言うのは、いつバッファローが殺され、野性馬が家畜化され、森の神聖な コーナーが人間の重苦しい臭 いに満ち、実り豊かな丘の景観が電話線でしみをつけられるのかが、解らないからです。
あのしげみは何処にあるのか? なくなってしまった。
あの鷹は何処にいるのか? いなくなってしまった。
生きることの終わりであり、生き残ることの始まりである。
彼は、すでに現状をあの当時から看破しており、「生きる」時代ではなく、「生き残る」時代になったと結んで いる。食品添加物に気を使い、水道の水にも フィルターを付け、生き延びようとしている様子は、まさにその通りだ。学生達には毎年講義のはじめにこの手紙を読ませ、60歳で辞職するまで、それを続け た。その時には左手にミネラルウオーター、背中に新鮮空気のボンベを背負って過ごす毎日が待っているとも言った。
不思議なものだ。いもの茎を食べながら幼児期を切り抜け、激しい高度成長を経験し、今やこの物質文明の真只中にありながら、今を 幸せと思えず、昔の環境 が懐かしいのは一体どういうわけだろうか。トンボやキリギリスを追いかけた野原の草の匂い、浜辺で魚釣りや水泳を楽しんだきれいな海、あの時代に、こよな く豊かさを感じるのはシアトル酋長だけではない。自然の説得力は偉大なものだ。キャンパスに大きなビルが建つにつれ、早く周りの木が大きくなってくれない かと願う気持ちも、これによく似ていると思う。夏はうちわ、良くて扇風機、冬は厚着をして火鉢にあたるのが普通の生活であった。盆踊りから帰ってきた後、 井戸からあげた冷えたすいかを食べ、蚊帳をかき分けて夜の冷気のもとで熟睡し、日中の疲れをとる。未だにほのかな思い出をかもし出してくれる。しかし、誰 がこれを奪ってしまったのであろうか。どうしてこんなにも変わってしまったのだろうか。シアトル酋長の言うように、我々には、誰が、何処で、どの様にこう してしまったのかが全く解らなくなっている。
シアトル酋長は、人間の造り出そうとする物質文明やテクノロジを、既にあの当時から強く批判し、それらによ る今日の公害と地球の汚染を予測している。素 晴らしい洞察力である。自然と共に生きる人達のみが感じ得る、テクノロジへの危惧であった。自然との接点を持ち、それを感じられる人のみによって、初めて 地球は守り得るのであろうか。
さて、わが国における建築学は、これまで一体どの様に社会に貢献してきたのだろうか。高層ビルは一見華やかな様子を見せるが、一 方各人の住む住宅はどう であろうか。筆者は多くの国を旅したが、日本ほど貧困な住宅事情は他に類を見ない。安価に作り、貧困なデザイン、劣悪な施工。その中に電気器具、空調シス テムをいれ、一見豊かそうに見えても、緑もなく、空間自体は貧困そのものである。その豊かさも、化石エネルギーの消滅で貧民窟と化すであろう。また高層ビ ルの中では、殆どは"新建材"に囲まれ、空調システムやエレベータ等、エネルギー消費を前提にした設計だから、 安価な化石エネル ギーの消滅で、一定以上の階は廃虚と化そう。狭いとは言え、国土のたった4%に押し込められ、安易な利便性のみを求めすぎた結果である。
建物はどれもこれもが似たような"新建材"と称する材料を使用する。安く、1つでも特 徴を出せれば簡単に市場を 占有でき、有害 で、地球と馴染まなくても、北は北海道から沖縄まで、一斉に使い出す。1990年11月ニュージーランドで" EarthBuilding(土 の建築)"に関する小規模な国際会議があった。アドベ(adobe)という日干し煉瓦や、土の建築にご執心な、いや、少し狂信的な面 々を主と した熱心な自然を愛する人々の集まりであった。地球に優しい建築材料は何かと云うのも大きなテーマであった。"新建材"が 健康に悪いことも詳しく述べられた。エクアドル、トルコ、ニュージーランド等のアドベ建築の地震による被害等も報告された。環境計画の話をするつもりで あったが、「日本の土壁について」を是非にと言う依頼に、にわか勉強し、木舞によって度重なる地震に耐えてきた歴史的事実、土壁に空気層を介して得られる 断熱性と、本来持つ熱容量とで素晴らしい建築素材になることなどを述べた。さらに、熱帯、寒冷地に共通して使われている草葺屋根も紹介した。今一度、日本 古来の壁や屋根に限らず、ヴァナキュラな建築、すなわち、各地に育った素材や施工法を、近代的な解析を通して見直してみるべきであろう。地球に優しい建築 材料とは何かを"さがす"(日本建築学会建築雑誌編集委員会から与えられたテーマであり、Vol.106, No.1313,1991年5月号参照)必要がある。以下その時の原稿を一部修正して再録しておく。
都市内のエネルギー消費量と、気温上昇の相関は実に明白である。ことに大阪のそれは排熱とコンクリートへの蓄熱でヒートアイラン ドをつくっている。子供 の頃、夏、地下鉄に乗る時には、涼しい所に行けると思ったが、現在はどうだろう。駅に空調機を入れガンガンまわしているのはこれを物語っていよう。工場、 自動車、電車、飛行機、オフィスビルそして家庭生活、一体これらがどのような比率でエネルギーを消費しているのかは定かではないが、家庭生活によるものも 決して少なくはないであろう。建築環境工学がこの領域で果たすべき役割が大きくなったと思う。
3次元空間の音の場、熱の場、光の場が解けてきたのは、有益でありがたいことだ。これらの物理量に対して、設計計画と直結する評 価関数を見つけて行かな ければならない。我々は、これらの異質な環境要因に対して、不快性尺度を共通な尺度として与え、それらを総合的に評価する手法を提案(第5章 付録参照)しているが、それによると、温熱環境が、ことに夏季には、傑出して室内環境に影響することが示された。そこで、自然環境と整合する方法で、快適 な熱環境はできないものであろうか、と考え始めたわけである。すなわち、夏、暑ければ暑いほど涼しく、冬、寒ければ寒いほど暖かいという、都合のよい関係 を見いだせないであろうか。
ここに、我々が"さがそう"としているのは、地中熱を基準にそのような環境を具現する 試みである。周知のごと く、普通の熱伝導 率をもつ地面では、約8メータ掘り下げると地上の空気の年間平均温度(恒温層)を示す。これをくみ上げることができれば、夏涼しく、冬暖かいわけである。 夏、太陽収熱によって浮力をつくり、化石エネルギを使わない、これを我々は行おうとするわけである。8メータは無理としても4メータ位にクールチューブを 埋め、地下室へ導くのはそう困難ではない。それを介して室内へ空気を取り込む。冬は風車発電や太陽収熱、堆肥の発酵熱などの希薄エネルギーをかき集め、地 中熱に上積みをする。現在、小規模な実験を基にした机上計算では、夏、外気温34度で室内26度、冬、外気温0度で室内12度 となった。これを実験住宅で試すわけである。この住宅では、屋根には草葺、茅葺、木肌葺の一つあるいはそれらを組み合わせて用い、土壁も西側の壁に用い て、収熱や浮力の補助に用いたい。さらには、雨水の利用、トイレ処理の仕方、木々の熱環境への寄与等も取り上げ、地球に自然に帰って行く建築材料を用いた 住宅を目指そうと、夢はふくらんでいる。
これらは学生を中心に、住宅を具体的に造って、さわって、その善し悪しを具体的に議論する設備にして行きたい。流し台の寸法、階 段の蹴上げ、踏面、手す りの高さなど資料集成が決めるものではない。施工法の研究、デザインの研究等も実際の住宅をさわってみて初めておこないえるのではないだろうか。
同様な議論は、過去日本でも数多くみられる。が、残念なことに、安価な化石エネルギーに基盤を置いた日本の現状は、このまま行き 着くところまで行かない と、この種の議論へ戻って、それを充実させ、育てていけないのが現実である。幸い、ニュ−ジーランドの多くの知己とは通じ合うものが あり、彼 の国からメッセージとして結果を持ち帰りたい。土地や物価が安いこと、国際交流に寄与が出来ること、時差の少ないこと等も、この地を選んだ理由である。
日本の地盤には育ちそうもない別の理由も考えてみる必要がある。どうも良い住宅(社会の最も基本単位である1家族を収容する1戸 建て住宅)を求める研 究、教育の場がなおざりにされ、それに向かった具体性は見あたらない。例えば、大学のカリキュラムを見ても、大量生産される建築材料を使った大規模な建築 のみを目指しているような感がある。その大きな原因は、現在の建築学科の講座構成が少し構造学に比重をかけすぎているからではないだろうか。オークランド 大学では、20人近いスタッフの内、構造学を専門にするのは1人に過ぎない。それも講義には模型を造って説明し、偏った理屈だけの教育ではない。環境工学 では音、熱、光に5名 揃えている。他は計画系である。わが国においては、構造学の研究の発展過程で種々の方法論や境界条件によって、分離を重ね、発展を遂げてきたのである が、現在一定の爛熟期にきていると思われ、構造学としてではなく、建築学に求められる構造学とは何かを考えてゆかねばならないと思う。構造学は建築計画の 一要因に過ぎないからである。けだし、建築学もここにきて改めて進むべき道を"さがさ"なければならないと思 う。
そして、もっと良いストックとなりうる住宅の設計計画に重きを移すべきだ。吉田首相は"住宅よりも工場を "、ド イツのアデナウ ア首相は"工場よりも住宅を"と、第2次大戦後の荒廃した世の中を勇気づけてきたという。数年に一度訪ねている 30年来のドイツ の友人の住居は、たえず私のより10年は進んでいた。今では私には土地が買えないから、これ以上比較することはできないが。
何れにしても、日本の建築学の将来が、地球の終わりを"さがす"ことにならないように したいものだ。
安易に得られて廉価な石油エネルギーは、貪欲な人間の標的となり、その大量使用は、地球温暖化は勿論、様々 な人間社会への弊害を作っている。そのどん欲 な経済行為は、再分解不可能な、有毒な化学物質、生産過程から排出される有毒な重金属、放射性廃棄物の蓄積、抗菌性の出来た病原菌、オゾン層の破壊物質な ど、様々な結果を作っている。その石油も40年もすれば枯渇すると言われている。そのいき着く先は、退廃と破壊であることは明白である。
雪が降れば雪囲い、日射が強ければよしず張り。少しの手間で長期間快適になる。快適性を求めることだけを考えてはならない。幅広 い季節の変化から、生きる ための免疫力を培っているということを忘れてはならない。そして、季節の楽しみを味わう喜びを忘れてはならない。
化石エネルギーが汚染のみを残して、枯渇することは明らかに分かっている。建設時の消費エネルギーが大きなビルを建て続け、その 後、そこでは毎日莫大な量 のエネルギーを使い続けている。そのことについて何等議論がまき起こらない。エネルギーの枯渇は、開発途上国が同様にエネルギーを使いだした現在、その日 は突然やってこよう。その時はきっと大きな混乱に落とし込まれよう。他人の責任に課そうと、口汚くののしり合う様子が想像できる。その時すでに失われた生 存への免疫力はさらに弱まり、人間の価値観はどんどん低落し、差別も益々強くなってこよう。
このような現状を許してしまう今の社会体制は、どの様に手を付けて改革して行くべきか、その手法は見あたらない。あまりにも他人 に依存し、利用しあう社 会を断ち切って、持続可能な生活様式を確立することから始めなければならないと私は思う。自分が、個人が初めて解放される、その様な原点が必要だ。誰かが 新しいエネルギーを見出してくれようと言う考えもあるが、退廃的思考の延長線上にあるにすぎない。同時に、それが実現しても現状と同じく、社会構造からの 大きな拘束を受けることに変わりはない。自然との接点がどれほど素晴らしかを思い起こし、そこからの再出発を原点にする必要がある。
その議論を 発展させてゆく過程では、定性的な議論ではなく数量で表して主張して説得して行かないと、経済力に押し流されて、不毛の議論になってしまおう。丁寧な測 定、分析をし、そのシミュレーションを行い、定量的議論をしっかりしておく。しかし、それらの結果はあくまでもシミュレーションであり、生活計画にあたっ ては十分それを認識したうえで、それを用いて豊かな自然と共存するべく計画する楽しみははかり知れない。
明日はいよいよインストライブの最終章ですね。
いいなぁvv
アンジェラの中で、ライブに参加するファンのみんなの中で最高に熱いライブになりますように!!
今夜はおいしい物を食べて、ゆっくり休んで下さいね♪
頑張れアンジェラ♪♪♪